水浴び






とめどなく落ちてくる水が、腕を、頬を、瞼を叩く。

目を閉じて、体中をひやりと吸い付く土に預けて、
ただ、今感じている感覚を、味わう事に専念した。

覚えていよう、忘れないでいよう。
これを最後にする気なんか無いけれど。

もしもの時に、後悔しないように。



久しぶりの雨だった。
クリスタルの弱まりが原因らしい、長らくの雨の無い気候。
それでも、乾かない大地。だからといって、豊かに実らない作物。

全てのバランスが歪んでしまった世界。

雨が降らないのも、大地が乾かないのも、風の弱まりのせいだと、
シドが言っていた。詳しい話は、俺は聞いていなかった。
理由なんて、どうでも良かった。

解決策は、どうせ一つなんだから。


少し、目を開けてみたら、すぐさま雨が目に叩き込んできて痛い、
手で顔を覆って傘代わりにする。手の脇から零れた水がポタポタと、
目に降ってくるけれど、さっきよりはずっと優しい衝撃。
でも、手の平に付いていた土のせいで、泥水になった水は、
さっきとは違う攻撃法で、俺の目に衝撃を与えた。


「ってー・・」
一人呟いて起き上がって、目をぱちぱちと瞬きさせた。
何をやっているんだろう、俺は。そう思うと、何だか可笑しくて。

そしたら、不意にあいつの顔が見たくなった。


何故だか分からないけれど、唐突に、一緒に居たくなって。
こんな姿を見せたら、きっとバカにされるだろうけど。

それでも、無性にあいつに会いたくなった。
寂しい訳でもないのに、どうしてだろう。

「ファリス」

濃い灰色に染まった空から、雫はただただ落ちてくる。
見上げたまま呼んでみた名前は、何事も無かったかのように宙に消えた。

「・・・ファリス」

どうせ消えてしまうなら、何度呼んだって大丈夫だ。

呼んだら、強くなる気がした。
弱くなってしまう気もした。

湿った空気を大きく吸い込む。雨特有の匂いがした。

「ファリスー!!」
ヤケ癖のように、大声で叫んでみた声も、どうせ、雨音の中に同化して、
溶けてしまうんだろう。

「何やってんだよお前・・!」
でも、溶けてしまう前に、俺の声をキャッチしてしまった人物が居たようだった。
雨音と共に聞こえた聞きなれた声に、さほど驚きはしなかった。
キャッチしてくれれば良いのに。少し、そう思っていた人物。


「泥だらけじゃねぇか」
「よぉ、ファリス」
驚いた顔で俺を見下ろす人物に、もう一度、名前を呼んで、笑った。

「何やってるんだよ」
先ほどと同じ質問を、相変わらずの驚き顔でファリスが繰り返す。

「折角降ってきたんだ、水浴びでもしてやろうかと思ってさ」

俺のバカな返答には何の反応も示さず、ファリスは一人傘をさして、
ただ、ただ呆れた顔で見下ろしてくる。
俺が何をしているのか、何を考えているのか、解りかねるといった顔だ。

そんな顔をされるのが嫌という訳ではないけれど、
ファリスとの間にあるズレが気にくわない。

「気持ち良いぜ。ファリスも来いよ」
「どこに!?」

益々困惑した顔を見せるファリスに、場所を指し示す。
水しぶきが上がるのも気にせず、あぐらをかいている真横を、
手でバシャバシャと叩いた。

何だか気分が良かった。本当に気持ちが良くて、
いつもより大胆に、バカな事が言えた。
世間では、こういうのを開き直るというのだろう。


「誰が・・」
何か、ファリスが言おうとした。どうせ否定の言葉に決まってる。
だから、聞き終わらない内に、ファリスをこっちに引き寄せた。
思いっきり、雨が降り込み続ける土の上に。

不意に手を引っ張られて、小さな叫び声と共に、あっけなくファリスが
土と水の混ざり合った地面に崩れた。
いきなりの出来事に、1,2m向こうへ転がった傘を数秒ぽかんと見つめた後、
ファリスが俺を見る。穏やかとは言えない目つきで。

やっと、同じになった視線。

「てっめぇ・・何しやがる!」
いきなり首根っこをつかまれて、シャツがきつく首に食い込んだ。
苦しいけれど、それでも可笑しくて、息も絶え絶えに笑う。
そんな俺を見て呆れたのか、俺を突き飛ばすように、
ファリスは襟を掴んでいた手を乱暴に離した。

「ちくしょう!」
言いながら、ファリスが、ヤケクソ気味に、泥の上に大の字に寝っころがった。

「気持ち良いだろ?」
「良いもんか! 最低だ!」
暗い空に向かって、ファリスが叫んだ。


「何やってんだ・・」
三度目になるファリスの問いかけ。でも、さっきまでの二つとは違う。
このイントネーションは、明らかに自分自身に問い掛けている。

「世界との別れを惜しんでんだよ」
ズレたタイミングで返って来た俺の返答に、一瞬、ファリスはピンと来ない顔をする。
しかし、すぐに意味を理解したのか、明らかに故意に、目線を俺から逸らした。

「バカな事言うんじゃねぇよ、別れちまってたまるもんか」
「そうだな、でも、万が一の事を考・・」

発言をさえぎったのは、突然飛んできた泥の塊。
開いていた口に、鼻に入り込んだ異物を外に出す為に、
俺の体の防御反応がフルに働いた。
反射的に目を閉じる事には成功したのがせめてもの救いだ。

「何・・て事すんだよっ・・! お前!」
ゴホゴホと咳き込みながら、泥水を顔に思い切りかけてきた女に、
何とか講義の言葉を投げるが、黙っていた方が良さそうだ。余計に苦しい。

ファリスは何も言わなかった。否定するでも肯定するでも無い涼しい顔で、
起こしていた半身を再び横たえる。

「意外に気持ち良いかもな」

すっかり泥まみれになった衣服に開き直ったのか、
ファリスの表情はさっきよりも開放的だ。
本当に気持ち良さそうに、濡れて顔にに張り付いた髪を後ろに掻きあげている。
頬に、泥の跡がついた。

「顔、泥だらけになってるぞ」
ようやく息が落ち着いて来た。慎重に喉を使ってみたら、もう咳は出ない。
俺の言葉に、ファリスが吹き出した。

「お前に言われたかねぇよ」
「これはお前のせいだ!」

俺の言葉なんて無視で、ファリスは目を閉じる。さっきの俺みたいに。
俺も、もう一度、体を泥の中に預けた。
今度は目を瞑らずに、顔を空から背け、隣のファリスを見る。
静かに目を閉じているファリスの横顔は泥だらけで、泥水に浸った髪は、
本来の綺麗な紫をくすませて、ファリスの体にまとわりついていた。

「汚ねぇ格好」
笑いを含んだ俺の声に反応して、ファリスが軽く睨んだ。

泥にまみれたファリスは、ファリスらしかった。
どんなに高価で綺麗な服を身につけたって作り出せない、
そんな美しさがある気がした。

「なぁ」

目が痛くなったのか、半身を起こして髪を再び掻き揚げているファリスに
呼びかける。特に、何の反応も示さない。

「何だよ」
反応が無かったからではないけれど、何となく、
呼びかけっぱなしで黙っていたら、ぶっきらぼうに、
ファリスが声をかけてくる。

「何か、俺に言いたい事は無いのか?」

俺も半身を起こして、冗談交じりにそんな質問を投げてみた。
俺の声に、ファリスが眉を寄せた。何を言ってるのか分からない。
そう言いたげな表情。
でも、本当にそうだろうか。どこか、内面を隠そうとするかのように、
その顔はわざとらしい。
そう見えるのは、俺の都合の良い考えだろうか。

「言いたい事があるのはお前の方なんじゃないのか?」

予想していなかった返答。どうせ、何も無いとか、何言ってんだとか、
そんな事を言うと思っていた。
きまりが悪くなって、返答が滞った。


二人で黙り込んだら、ふっと雨の音が大きくなった気がする。

肌は、すっかり雨にさらされる事に慣れてしまって、
冷たさも何も感じない。

このままだと、雨を含んだ空気と音に馴染んで消えてしまいそうだった。
ファリスは、表情を緩ませて、どこを見るでもなく前をぼんやり見つめていて、
何となく頼りなく、存在が薄い気がして、訳も無く不安になる。

溢れかえっている、手元の雨水を、思い切り手加減無く、
ファリスにかけてやった。
あまりに突然で防御仕切れなかったらしい。殆んどの水が、
ファリスの体に無事届いたようだった。

驚きの表情は一瞬でファリスの顔から消え、すぐに、
その顔は穏やかでない色に変わる。

「いい度胸してんじゃねぇか」
「うるせぇ!さっきのお返・・」

俺は、さっき泥水を飲んでしまった反省から、言葉を速やかに切り上げると、
程なく始まったファリスの総反撃から身を守った。

しとしとと降り注ぐ雨とは比べ物にならぬ程強く大粒のしぶきに、
体が痛い程だが、今、丸めた背を解いたら、もっと酷い事になるだろう。

「ってぇ!! ちょっと待て! 石! 混じってるって石!」
「混じってたら悪いか!」

泥水と共に砂利まで投げてくるファリスに絶えかねて、そう叫んでも、
何の効果も無い。

「止めろって! ホントに痛ぇよ!」
身を守るばかりでは解決にならない事を悟った俺は、
一旦防御を解いてファリスの腕を掴んで攻撃を阻止した。

本当に痛いのに、本気で止めてもらわないと困るのに、笑いが止まらない。
腕を掴んだままファリスを見ると、やっぱり笑っていた。

こんなにバカな事で笑ったのは久しぶりで、
こんなに心が開放されたのも、久しぶりだった。

「とんでもねぇ女だな」

非難めいた色を出したかったのに、笑顔は押し殺せなかった。

泥まみれで、顔をクシャクシャにして笑うファリスは、
あまりに彼女らしくて、きれいだった。


「好きだ」

そのままの、ふざけたテンションのままで呟いてみた、
言うつもりなんてこれっぽっちも無かった言葉。

ファリスだって、改めてそんな事言われるつもりなんて無かったんだろう。
笑いの表情がほのかに残ったまま、きょとんと頬を固まらせる。

いつもの強気をつい忘れたような目で、俺を見つめ返してくる、
その様子が新鮮だった。
さっきは、何の意識もせずに掴んだファリスの腕の温もりが、
俺の衝動を後押しした。

引き寄せようとしたファリスの腕が、我に返ったように強張った。

「なっ・・何だよ、何してんだ」

キッと睨みつけられる。腕は、強張ったまま俺の引力には従わない。

「何笑ってんだよ」

そんな様子が面白くて、つい笑みを浮かべてしまった俺を、
ファリスは相変わらず睨みつけてくる。

掴んでいた腕を開放してやる。何の未練も無さそうに離れたファリスを、
少し恨めしく思いながら、視線を逸らす。

「あーあ、拒まれちまった」

おどけたようにそんな事を言う、そうしないと、
さっきの言葉の恥ずかしさが今更ながら沸いて来て、
何も言えなくなりそうだ。



「バッツ」

俺の名を読んだファリスの声は凛としていた。
振り向いたら、深刻というより、何かを決意しているような、
神妙な顔つきのファリスの横顔。


「俺は、万が一の事なんか考えない。 何が何でも生きて帰ってくる。」

決意とは、また違うかもしれない。それは、説得のような、
まるで、自分に言い聞かせるような。でも、力強いモノが感じられる口調。

「お前はどうだ?」

不意にこっちにふられて、ちょっと、言葉に詰まる。
ファリスの顔は、相変わらず神妙だったけれど、その声色に、
少しすがるような弱さを感じて、

ファリスが、何を思っているのかに気が付いた。


「帰って来るよ。 絶対、何が何でも」

出来るだけ、しっかりと、力強く言った。
保障の無い事に、絶対なんて言葉を使うのは嫌いだけれど、
今は、使いたかった。

ファリスを安心させる為だけじゃない。自分の為にも。
迷っていたつもりなんて無かった。でも、明らかに俺の心は、
今、戦うべき者の方向に、真っ直ぐに向かった気がする。

ファリスの神妙な顔が、いつもの笑顔になって、
しっかりとうなずいた。


雨でだらりと落ちて来て、ファリスの顔に張り付く長い前髪に
そっと触れて、後ろに流してやる。
俺に頬を触られるのに警戒して、ファリスの視線が、再び強くなった。

「別に、万が一の為じゃねぇよ」

そこそこ勇気の要る行為を、こうも何度も妨害されては、たまったものでは無い。
照れを隠すように、ぶっきらぼうに言い放つ。


相変わらず視線はきつい。 でも、抵抗の力は感じない。


雨は相変わらずの調子で、俺たちに降り注ぐ。
二人に付いていた泥も十分落ちてしまう程に。


「泥臭ぇ・・」

少し顔を離してから、しかめっつらでファリスが呟いた。


世界の為なんかじゃなくて、自分の為に。
自分が、この世界で生きる為に戦おう。

俺の為に、生きて帰ってきてくれなんて言ったら、

ファリスは怒るだろうか。




バッツに、好きっていわせたかった。


 
 

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