真夜中のキッチンで20091230



細く明かりの漏れるドアに気づいて、廊下を歩く敦盛が足を止める。
誰も居ないはずのリビングのドアが、少し開いていた。

明かりを消すのを忘れたのか。

何度か見たはずの消す方法を思い浮かべつつドアをそっと押すと、
抜け殻のような閑散とした空気が漂った。

先ほどまでの賑わいが嘘のように静まり返ったリビング。
テーブルに点々と取り残されたコーヒーカップの白さが、寂しげに浮かぶ。

「わすれもの?」

誰も居ないとばかり思っていた敦盛は、その声にひどく驚いて顔を上げた。

「ヒノエ? 驚かすな」

つい、口調がすこし荒くなったけれど、胸を撫で下ろすように、
心底からため息をつくその様子に、険しい印象はない。

「驚かしたつもりは無いんだけど」
「君は、皆と一緒ではなかったのか」

ソファの背もたれと手すりの角に、丸まるように腰掛けて本を読む、
その背後から声をかけた敦盛に振り向かないまま少し笑って、
ヒノエは返答になっていない返事を返す。

「そんなに意外?」
「そうだな、少し意外だった」

率直な考えを、声にしつつ、ヒノエの様子を伺って、

「…気が滅入ることでもあったのか?」

敦盛はまた、ただ素直な考えを口にした。
ゆっくり振り向いたヒノエの顔は、明らかにしかめっ面。

「…なんで?」
「なんとなく…そんな気がした」

しだいに自信が失われて、見当違いだったように思える自分に居心地が悪そうに、
敦盛はヒノエから目を逸らす。

「違ったなら、おかしな事を言った」

しかめっ面のまま。嫌そうな空気を含んだ大きなため息をヒノエはついて。
読んでいた本をサイドテーブルに軽く投げた。

「意外と侮れないね」

自分の発言が正しいのか間違いなのかわからずに、そんなヒノエに首をかしげてたちすくむ。
座んないの?と、隣に目を向けるヒノエに断る理由もなく、敦盛は腰を下ろした。


しんと。静かなリビング。
いつも何かしら、自然と話を切り出すヒノエが、今日は口を開かない。

沈黙に、気まずさよりも、心細いようなにわかな不安を感じて、
ふと敦盛は、日ごろヒノエに頼り気味な自分に気づく。

今、手を差し伸べてやらねばならないのは、自分なのではないだろうか。

ヒノエの沈黙が助けを求むサインのように感じられて、敦盛の身にしみる。
無意識に深刻に固まった表情をして、そこまで考えたところで、
ヒノエの吹き出すような笑い声が空気を破った。

驚いて顔を上げる。ヒノエがくつくつとちいさな笑い声をたてながら立ち上がって、
冷蔵庫の方に向かった。

「心配しなくても、大丈夫だよ」
「え? あの…」
「そんな事よりさ」

飲み物でも取るのかと思えば、ヒノエが冷蔵庫からひっぱりだしたのは、
がしゃがしゃと音をたてる、透明の袋に入った、なにかの野菜。

その光景を、きょとんと見つめる敦盛を振り返って、
ヒノエが、年相応で含みのない顔で、無邪気に笑った。

「カレー、作ろうぜ」






「こっちでは、年が明けたら食うらしいぜ」
「年があけたら? それは、”おせち”のことでは…」
「それもあるんだろうけど、まぁ、深く考えるなよ」

テーブルの上に並んだ、数種類の野菜と、カレーのルウを、
敦盛は珍しげに眺めていた。

他のやつらが派手に年を越そうって時に、黙って座ってる訳にはいかない、
そんな事を言い出したヒノエに、なら皆と一緒に外出すればよかったろう、
そう思ったものの、敦盛は何も言わずにただ曖昧に頷いた。

「勝手をしては、譲に叱られるのではないか?」
「敦盛」

手ごろな鍋を物色していたヒノエが振り返った。

「深慮なのもいいけど、後で考えたって遅くない事もあるんだぜ」

譲に叱られてから考えても、遅いのでは…
言葉にはせず、心でそう小さく反論しつつも、敦盛は再び、
歯切れ悪く頷いた。

この世界では、日付が変わる瞬間を寺で迎える慣わしがあるらしい。
大勢の人々が寺に集まると聞いて、躊躇い無く行くのを控えた敦盛。
その時は面白そうにその話を聞いていたヒノエが、ふいっと興味を無くす事は、
実をいうとさほど敦盛にとって意外ではなかった。けれど。

「君が、神子と共に出かけないのは意外だった」

話が途切れた隙間に、できるだけそっと、敦盛がそう口にする。
ヒノエにまとわりつく小さな違和感の正体が、そこに隠されている気がした。
したからこそかえって出し辛かった話題を、ほんの少し迷った末に出してみる。

「だろうね」

その話題に、怯んだ様子も戸惑った様子もなく、あまりに普通にヒノエから返った返答。
拍子抜けして調子が狂う、敦盛は言うべき言葉をみうしなって、ただヒノエをみつめた。

「その野菜、袋から出して」
「…ああ。作り方を知っているのか?」
「知らないよ」

ヒノエの返事に驚いて、野菜の袋にかけた手を敦盛は止めた。

「私も、知らない」
「解ってるよ」

そりゃあそうだろと言いたげに、ヒノエが笑う。
あまりに深刻でないその態度に呆れながら、敦盛はため息をついた。

「大丈夫だよ、大体解るから」

無謀な行動に出がちな幼馴染を疑わしげに少し睨みながら、
不慣れな手つきでなんとか、一つ目の袋を開けた。

その間に、ヒノエは鍋や包丁など、調理に使う道具を一通り出し終える。

「前に、シチュー作ってるの見たことあってさ…わかる?シチューって」
「ああ、あの、白い」
「そ。その時に望美が…」


時間はほんの1秒ほどだったけれど。
彼女の名前に途切れた、小さな言葉の切れ目。

「強引に手伝って、カレー作った事あるから平気だって言ってたから」

普通に聞けば、何もおかしな様子はない、さらさらとしたヒノエの言葉の流れ。

「そう、か…なら、作り方が似ているのだろうか」

息を飲み込んで、必死に、普通に敦盛は言葉を返した。何故だか、
ヒノエの違和感に気づいたことを隠さないといけないような気がして、
ただ、三つ目の袋を開けることに専念する。


早くも、ジャガイモの皮をむき始めたヒノエの手元をもの珍しげにみつめる敦盛に、
ちらりと視線をやって、ヒノエが、ふと、ちいさく笑った。

「ほんと、お前、侮れないね」
「…は? なにが」
「でも、顔に何でも出過ぎるのは致命的だぜ?」

間者には向かないな、そう言ったヒノエに、
向かなくていいと、静かに返事をしながら、敦盛は一つ、息を吸う。


「その…。神子と、喧嘩でもしたのか?」

少し、間があった。包丁のすべる音だけがしばらく小さくひびく。

「してないよ」

まるで感情の滲まないヒノエの短い言葉だった。

「喧嘩くらいでこんなに落ち込むほど、オレは…」

言い掛けて、計算外な失言にヒノエは気づく。

決して鈍いわけではない幼馴染を前に、つい隠しそこねてしまった弱さ。
そっと隣を見れば、ひどく心配げな顔で敦盛が自分をみつめていた。

「そういう顔、やめろよ」
「え? お、おかしな顔をしていただろうか」
「ああ、お前の顔の方がよっぽどおおごとだって」
「…すまない」

何、謝ってんだか。口には出さずに。切ったジャガイモを
器に放り込む。包丁使った事あるか?と、敦盛に聞きかけて、
愚問だと気づいてやめた。


「ヒノエ」

自分を呼んだ声が、ぴんと伸びた背筋のように潔くて、
その空気の変化にすこし驚きつつ、ヒノエが顔をあげた。

「私が、君の役にたてるとは思えない、けれど」

揺らぎかけた言葉を、強引に押し戻して、敦盛は真っ直ぐに、
意外そうな顔をするヒノエをみつめた。

「力になれる事があれば言ってくれ」


思わず、ニンジンを切ろうと持っていた包丁を置いて。
あまりに真剣な敦盛の顔をながめた。

「…うん」

その深刻さに気後れして、対処の仕様に戸惑う自分が、
不意におかしくなって、つい、ヒノエが笑みをもらした。

それを呆れ笑いとでもとったのか、先ほどのしゃんとした色の
すっかり消えた目を下にそらし、敦盛が恥かしげに黙りこむ。

「じゃあ、お前に聞いてもらおうかな」

予想しなかった申し出に、驚きと安堵の混じった顔で
敦盛が顔をあげる。そんな様子に、おどけるように小首をかしげて、
ひとつ、ヒノエが片目を瞑ってみせた。

「オレの、恋の悩み」

途端に、固まらせた頬を赤くして、敦盛が自信無さげに言葉を失う、

「ぶっ!」

ヒノエがおかしそうに吹き出す、手の甲で一応口を押さえる素振りを見せながらも、
その笑い声は爽快ななまでに、静かなリビングに遠慮無しに響いた。

顔を赤くしながら、敦盛がしだいに、顔をしかめる。

「ホント、顔に出すぎだぜ、面白い奴」
「…ふざけているのか」
「ははっ・・ちょっと待てって、ごめん」

おおきく息を吐いて、包丁を持ち直すと、再びヒノエがニンジンと向かい合った。

「ごめん、聞いてよ」

まだ少し不機嫌さの残る顔をひきずったまま、
敦盛が小さく頷いた。


「なぁ、お前だったらどうする?」

よく知ったヒノエの声の筈なのに、重みを増したように静かな印象に、
ひどく新鮮さを感じた。 じっと、続くであろう言葉を敦盛は待つ。


「聞いてる?」
「え!? そ、それで、終わりか?」
「…細かい状況は説明しなくたって解るだろ?」

その場、その場で、最も大切なものを選ぶ、それだけだった。

そんな風に色んな物事を乗り越えたり、時にはかわしてきた。
勿論、その判断は痛みを伴うことだってあったけれど。
そんなやり方が最善だと信じて定着させつつあったヒノエに突きつけられた、
残酷なまでに、選びようのない選択肢。

日に日に、どんどん無くなってゆく残り時間。
たとえぎりぎりまで引き伸ばしたところで、結局状況を悪化させるだけだと解っていた。
ヒノエも、そして彼の想い人も。

「あの…ヒノエ」
「うん?」

ニンジンの切り方に意識をむけるのをすっかり忘れていたことにふと気づく。
どうだってよくなって、量も確認せずにヒノエは残ったニンジンを無造作に
袋にもどしてしまった。

「すまないが、もう少し詳しく、説明してもらえないだろうか」

思わず、取り繕うのもわすれて、呆れた顔で敦盛を見る。
どうしようもなく困り果てた彼の顔。

「へぇ…そういう事には、鈍いんだ」

鈍い。鈍い事はヒノエだって知っていたけれど。

「オレと望美の事は気づいてるよな?」

気づいているかと言われても、敦盛はあまりに漠然とした問いかけに戸惑いながら、
ふと思いついた事を口にする。

「もしかして、本気で君は神子の事を?」

そこを、今気づいたのか。色恋沙汰には鈍いとは思っていたけれど…

ヒノエの想定を超える鈍さだった。

「うん、まあ」
「本気だったのか…」

改めて、そんな真剣な顔でその事実を再確認されると、
柄にも無くいやに気恥ずかしくなる。
面倒くさそうに顔をしかめてみたところで、
気まずい思いは消えずに、もやもやと胸に残った。

人の顔色に敏感な敦盛も、今ばかりは、新しく知った事実に動揺してか、
歪んだヒノエの表情を見ているようで見てはいなかった。
不明瞭だったヒノエの悩みがハッキリ浮き上がる

「そうか、それで君は」

心底悲しそうな顔で敦盛に見つめられて、ヒノエの恥かしさがますます悪化した。
相手が真剣なだけにどうかわせばいいかわからない。
もういいや。そんな思いで敦盛から目をそらして、ヒノエは髪をかきあげた。
けれど。

「あの、ヒノエ。私なら…」

戸惑いがちな声に目をやれば、揺れる声色とは裏腹に、
真っ直ぐこちらに伸びた敦盛の視線。

「私ならどうするかは、想像も付かなくて、解らないが」
「…わかんないんだ」

なんだか、痛いほどに真剣な敦盛がおかしくて。

どうせどんな返答を聞いたって参考になんてならない、
そう解って放った問いかけだった。だから、

自分を思い、必死に言葉を紡ぐ敦盛。それだけでヒノエには十分だった。

「けれど君なら、どうするかは、解る気がする」
「は? オレ?」
「神子の傍に居たいのだろう?」

先ほどまでの頼りなげで恥かしげな面持ちは、敦盛にはなかった。
あまりに真っ直ぐに問われた質問。

望美の傍に居たいのだろう?

「…うん」

不意打ちで、胸に熱いものが突き刺さったように、
込みあがってきたものをヒノエは必死に飲み込んで。

「そりゃ、居たいよ」

出した声がいつもの調子で出なかった。

傍に居たい。その当たり前で何の飾り気もない言葉が、
全てを表しているような気がした。

「なら、ヒノエはそうするだろう」
「簡単に言うなよ、そう出来るならオレだって…」

荒くなってしまった口調にヒノエは我にかえった。
らしくもなくこんな事で乱れた自分の心に唇をかみしめる。

苛立ちを向けるべきなのは、敦盛にではないのに。

「ヒノエ」

敦盛の顔から目をそらしたまま、それでも謝ろうと口を開くより先に、
穏やかな声色で名前を呼ばれる、安心感と気まずさを同時に感じた。



「君ならきっと、そうすると思う」

静かで、小さめだった。けれどその敦盛の声はただ強く響いて、
どうしたって消え入りそうにない。

まるでそれは、まじないのように。
不自然なくらい堂々とヒノエの中に居座ってしまう。
目が覚めたように、心のなかがくっきりと見渡せた気がした。


「頑固だね」

言って、ヒノエは笑った。 敦盛は我に返ったように視線を緩めて、
そのあと、つられるように、苦笑いをうかべた。


「鍋にコレ入れて」

ヒノエから突然わたされた油のボトルを慌ててかかえて、
敦盛はそれとヒノエの顔を交互に見た。

「さっきから、オレばっか働いてんじゃん」
「ああ…そ、そうだな、すまない」

ぎこちなくキャップをさぐる敦盛に笑いながら、
ひょいと出した手で、ヒノエは簡単に蓋を開けた。

「ありがとう」

自分の不甲斐なさに内心少し落ち込みながらも、敦盛が反射的に礼をいう。


「…こちらこそ」

ゆっくり、妙に含みのある言い方だった。


顔を上げた敦盛と同時に、ヒノエは切った野菜を覗き込んで、
視線が交わることはなかったけれど。

二人に、同じ穏やかな笑顔がうかぶ。


「お前には責任持って協力してもらうぜ」

敦盛はコンロになんとか火をつける。
一つひとつの行動を確かめるようにこなしていく敦盛の背中に、
軽い口調でヒノエが声をかけた。

「これから方法を考えなきゃね。天界の姫君を傍に置いておく方法をさ」

鍋に、ドサドサとヒノエが具を放り込む。
油と野菜が馴染みあう、独特の匂いがたちのぼった。

すこし怯んで後ずさって、敦盛が振り返ると、にやりと、
どこか悪っ気のある顔と目が合った。


「ヒノエ、深慮もいいが…」

いつも咎めたいような気持ちになるその笑顔なのに、
敦盛は、今日に限ってはふわりと微笑み返した。

「後から考えても良いことではないか?」

まだ記憶に新しい台詞を投げ返されて、ヒノエは目を大きくしたあと、
楽しげに笑った。

「言うじゃん」


真夜中のキッチンに響く声は、まるで遊びに夢中になっている子供のよう。


ほんの30分前までの、からっぽの空気はただ、暖かく穏やかなもので満たされて、
寂しげな色は名残すらなかった。






まず年越しソバを作れ。 なんでカレー?
ソバだろってだいぶ書いてからじゃなきゃ思いつかなかった自分がわからない。
バカか私。カレーそんなに好きか。 大好きだカレー。




帰る