風邪と願い事20081030



「熱だしちゃうなんて、体調管理不足ですね」

床に伏せて、布団に顔をもぐらせながら、赤い頬で力なく、千尋が笑った。


「そうとは限らない、疲れが出たんだろう」

意外そうな表情をされて、少し気まずい思いがした。

「俺が、病人にまで説教をすると思ったか?」

声では答えずに、千尋はさっきより穏やかに微笑んで、目を閉じた。

そっと、千尋の額に乗った冷却剤の入った布に触れる。
まだ冷たさが残っている事を確認して、引っ込めようとした手を、
不意に掴まれて驚いた。

熱い。俺の手首を掴む手は、熱に蝕まれて、暖かさを越していた。

「どうした?」
「忍人さん」

目を瞑ったまま、千尋の声はどこか現実感がなく、
夢の中を漂っているようだった。

「ここに居て下さい」

返事のしように困って、黙り込んで寝顔を見つめた。

「私、無茶なこと言ってますね」

夢と現実を、行き来するように、千尋はふとまともになる。
われに返るように離された手首が、熱をうしなって、
元よりも冷たくなった気がした。

「遠夜はどうした?」
「怪我人が居るから、治してあげてって私が、頼んで・・」
「そうか、解った。君はもう眠るといい」

苦しそうな息で説明を続けようとした千尋に、話す事をやめさせて。
傍にあった椅子を引き寄せて、腰掛ける。

「眠るまでここに居る」

目を、開けて、千尋はしばらく俺を見つめて、子供のように微笑んだ。
あまりに素直な反応に、気が緩んで、呆れたように少し笑う。

布団の中から、千尋が、さっき離した手を、そっと出して、
何かを求めるように俺を見つめた。

その意味を理解して、でも、すぐに行動にはうつせずに、
その手を俺は見つめる。

他に、選ぶ道が無いように、導かれるようにその手を、そっと取った。
熱が手のひらに広がって、染み渡る。

「いいから、はやく眠れ」

嬉しそうに、ぼんやり笑う千尋に、眉をよせて言った。

「勿体無いな」
「何が」
「こんなに幸せなのに、眠っちゃうなんて」

さっきから、千尋は半分夢の中で会話しているのではないかと思うほど。
ふわふわとして、相変わらず現実感が、ない。

「君の眠りの妨げになるなら、俺はもう行く」

自分の声にも、いまいち、勢いがない。脅すように言った言葉に、
千尋は手をさらに強く握った。

「いかないで」

綿菓子のように甘かった声色が、一気に水に溶けたように重くなった。

「・・冗談だ」
「おねがい、わたし、強くなるから」

どんどん、悲しげになる声に、思わず俺も、手を握る力を強くした。

「千・・」
「ずっと、一緒に居て」


手のひらの熱だけが、突然鮮やかになった気がした。
言いたい事が膨れ上がって、でも、声は固まったように出ずに、

胸が熱い。

「・・冗談だ」

やっと出た声が、少しかすれていて戸惑う。

「千尋、冗談だ」

ぼやけた目の色のまま、じっと見つめる千尋にため息をついた。
千尋の熱い頬を冷やすように、空いたほうの手のひらをあてる。

「どこにも行かない」

悪い夢でも見ているのか、不安げな千尋を安心させるために、
出来るだけ穏やかに、微笑もうと試みたものの、
うまくいった自信はなかった。

「だから、もう眠・・」
「好き」

部屋のぬるい空気が少し覚めたように鮮明になる。
ぼうっとした千尋の顔を、思わず凝視した。

触れていた頬から手を引っ込めた。何気なく口元に手をやると、
千尋の熱が移った指が温かい。

「忍人さんが好き」
「君の風邪は重症だな」

俺の言ったことを、聞いたのか、聞いていないのか、ふと見上げられた視線から、
何気なく目をそらす。

どうして、熱にうかされた者の言うことに、心を乱されるなど。

ばかげた事なのに、平常を装っても、心は虚勢を責めるように、
熱くて騒がしい。

「本当、だけど」

千尋は何か言いかけて、俺の手を、頬に引き寄せて、
人形を与えられた子供のように、安心した顔で目を閉じる。

「忘れて下さい」

うわ言のように言って、やっと眠りにおちかけている千尋に、
ほっと胸を撫で下ろす。

ここまで、人騒がせな事を言っておいて、忘れろなど。


「無茶を言うな・・・」


溜息交じりの小さな声は、幸せそうに眠る千尋には届かない。


俺の手を握る、千尋の手の力は抜けているというのに、
その熱さから、俺はなかなか抜け出せずに、
ぼんやりと、先刻の千尋の懇願を頭に浮かべた。


君と、ずっと一緒に。


君の熱が下がれば忘れよう。

君の言いつけ通りに。今自分の中に浮かんだ、願いも。
全て忘れるから。ただ、今はもう少し、


暖かい空気の中で、俺は千尋の手をそっと握り締めた。



忍人さんって口元に手やるの癖っぽいと思って・・
そういう立ち絵なかったっけ?勘違い?

 
 
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