それだけで 2008.0905




いつもと何ら変わりのない城内の一角に、夕暮れの気配が、そっと満ちていく。

さっきまで他愛も無い事を口にしては微笑んでいた千尋は、
何時の間にか、随分無口になった。
バルコニーに腕をのせて、静かに外を眺める後姿を眺めたら、

不意に、刺す様に鋭く込み上げた不安が、胸を締め付けた。

息を詰めて千尋を食い入る様に見つめた、はっと我に帰って。
俺は2、3度、目を瞬かせた。

変わらず目の前には、ありふれた夕暮れ時の風景が広がるだけ。

理屈を無視して起こった感情を、気付かなかった事にして、
俺は出来るだけ事務的に、その背中に声をかけた。

「千尋」

振り向いた千尋は、何かにおびえるように弱々しい。

「そろそろ帰ったほうがいい」
「そう、そうですよね・・」

笑った顔が堅くて、到底、彼女らしいとは言えない。
どうした? と、 聞くことができなかった。

彼女を不自然にさせている得体のしれないもの、
それは、さっき自分の心にも突き上げた、
あれと、同じなのではないか。
何の根拠があるわけでもないというのに、
その予測はやけに確信を帯びて、俺の中に落ち着く。

打ち明けて、この気持ちを共有する訳にはいかない。
聞いてしまえば、余計な事を伝えてしまいそうで。

「あ!じゃあ、帰る前に聞きたいことがあるんです!」

妙に慌ててまくしたてるように言う千尋を見下ろして、
少し微笑んで小さく息をつく。

「何だ」
「ええっと・・」

眉をよせて、千尋は言葉をつまらせる。

「どうしてそんなに考える必要がある」

俯いたまま、無言で動かない千尋に声をかけても、
黙ったまま、何の反応もない。

「聞く事がないなら、もういいだろう」
「あります」

ようやく顔を上げた千尋は、不機嫌そうに顔をゆがめていた。

「睨まれるような事を言った覚えは無いが」
「・・言ってません」
「本当に、質問があるのか?」

きりが無さそうなやりとりをとがめるように、
少し目線を強くした俺を、相変わらず機嫌が悪そうな様子で、
千尋はしばらく見つめて。

「どうして、そんなに眼つきが悪いんですか」

反抗的な言葉が投げられる。

「ふざけるのもいい加減に・・」
「だってこのままじゃ、話が終わっちゃう」

ふっと力が抜けたように弱さが蘇った千尋の目。
反抗されるよりも睨まれるよりも、こちらの方が厄介だ。

「当たり前だろう」
「そしたら、もう、帰らなきゃ」

千尋は言葉を中断させて、顔を背けて、
再び、何もない空間を睨んだ。涙を堪えるように。

「子供か、君は」

ため息をつきながら言ってみても、返事はなかった。
胸に葛藤が生まれる。ここで叱るべきか、それとも・・・

どんどん赤く勢いを無くしていく日をうけて、
暖かい色を含んで光る千尋の髪を、そっと撫ぜた。
かける言葉を少し捜したけれど、使うのをやめる。
何か言えば、千尋と一緒に俺まで、
気持ちに流されてしまいそうだった。

「もう、どうして・・」

揺らいだ声の後に、千尋が鼻をぐずらせる。
きらりと、雫が、俯いた千尋の顔にかかった髪の隙間から落ちて、光る。

開き直ったように、涙を隠しもせずに顔をあげて、
怒った顔をして、はらはらと泣きながら、千尋は俺を睨んだ。 

「どうして、こんな時に限って優しいんですか」

俺は今、一体、どんな顔を彼女にむけているのか。

「理由が必要か?」
自分の声が、ぎくりとする程いつもより熱っぽかった。
その色を、悟られないように、俺も視線をきつくする。

「ますます、忍人さんの事困らせちゃう」
歪めた千尋の表情。細めた目から落ちる、涙。

理性で押さえ込んでいた得体のしれないものが騒ぐ。
俺まで、この衝動に飲まれたら、収拾がつかなくなる。
どうかしているとしか、思えない。千尋に触れなければよかった。

掌を包む髪の感触から離れられない。離れたら、
もう二度と触れられない気がした。彼女から離れたらもう、

二度と会えない気がした。

まるで、何か知っている事を、とても大切な事を、
取り戻せずに居るような無防備な感触、それは不安というには、
あまりに深くて、くっきりした・・

これは、何だ?

「だから、優しくしないで」

すねる子供のような、苛立ちを含んでかすれた声。
けれどそのぬれた目には、純粋で真っ直ぐな責任感に満ちた、
凛とした強さが、はっきりと宿る。
俺の手を、千尋はきっぱりとした動きで払いのけた。

反射的に、つい掴んでしまったその腕は、細くて頼りなかった。
そのまま、衝動に流されるまま、

彼女を思い切り抱きしめたら、千尋の香りが、濃くふわりと漂った。

「俺を困らせているのは君じゃない。俺自身だ」

今の自分はどうかしている、わかっているけれど・・。

驚きで強張っていた華奢な肩が、俺の手に馴染むように、
少しずつ緩んでいく。

「どういう意味ですか?」

涙声に答えるように腕を少し緩めて、千尋の顔を覗いたら、
涙の後を残したまま、きょとんとした顔で俺を見上げていた。

「意味なんて、解らなくてもいい」

頬を濡らす千尋の涙を、両手で拭う。 跡をなぞるように辿ったら、
柔らかい唇に指先が触れた。

暖かい。

その感触に、温度にもっと触れたくて、千尋の頬を掌で包んで、
吸い込まれるように、今度は唇でそれに触れる。

暖かさも、柔らかさも、溶ける位に濃厚に伝わってきた。

しがみつくように、俺の腕を掴んだ手に答えるように、
緩やかに彼女の髪を撫ぜた。しっかりと千尋の存在を確かめる。

その感触は、ただ生き生きと、心を安心感で満たして行くから、
あの不安な感情の正体など、もう解らなくてもよかった。


腕の中の、君だけでよかった。

ただ、それだけで。




千尋を泣かせてばっかですワンパターンでダメです(それ以前の問題)