柔らかな空気  2008.0516




人の気配を無くした広場は、昼間とは別の場所のように新鮮だった。


ひんやりした風が、体をすり抜ける。気持ちが良かった。
少し立ち止まってあたりを見渡す、少し怖いような、何かを期待するような、
やけにわくわくした気持ちで、一人、息をひそめた。

「千尋」

突然後ろから名まえを呼ばれて、驚きのあまり心臓が止まりそうに痛かった。
振り返った先に居た人物に、無意識に止めていた息を、一気に吐く。

「忍人さん、びっくりさせないで下さい」
つい声が大きくなる。そんな私を忍人さんは不思議そうに見つめた。

「何をそんなに驚いているんだ」
「だ、だって、お化けかと思って」

不思議そうな様子を通り越して、不審そうに眉間に皺をよせてから、
忍人さんが、小さく笑った。

さっきよりも鋭さのない驚きで、私は再び目を大きくする。

「相変わらず、君はおかしな事ばかり言うな」
「あ、あいかわらず・・?」

よくよく聞けば少し失礼な事を言われてはいないだろうか。
だけど、私は、忍人さんの珍しく楽しげな表情に、上の空だ。

「そんな事より、また一人でうろついていたのか?」
「はい、でも・・ちょっと散歩してただけで」

緩い雰囲気が一気にひきしまる、厳しい目線に着いて行きそこねて、
つい、言い訳を口にしてしまって、後から少し後悔した。

「俺が何を言いたいか解っているな」
「す、すみません」

俯いて、忍人さんに見えないように、小さく口をとがらせた。

「まあ、いい」

以外に早く終わったお説教に、顔を上げる。
改めて見た忍人さんは、どこか違和感がある気がした。

「俺が護衛につこう」

少し探検しようと思っただけで、もう部屋に帰るからと、
そう言ったっていいくらい、特に行く所は無かったのだけれど。
その申し出に、幸せな色合いで心臓がちょっと高鳴る、

「でも、もう忍人さん、勤務終わってますよね」
「勤務時間などただの目安だ」

いつもの、きりりとした表情、先程から感じる違和感が、
浮き上がったように濃くなる、私はその正体にふと気づいた。

「あれ? 忍人さん、酔ってます?」

責めたわけではないのに。
見上げた顔が、決まりが悪そうに歪む。

「酔っているという程でもないが・・何故そう思った?」
「だって、顔が赤いですよ。 忍人さんって顔に出るんですね」

今度は嫌そうに、忍人さんが顔をゆがめる。
なにか、悪いことを言ってしまったのだろうか。

「大した量は飲んでいない、君の護衛には影響ない」
「そうですか」

飲んだけど、少しだから大丈夫だ、なんて、彼らしくない言葉。

でもその口調に誤魔化すようないい加減さは感じられず、
子供が必死に強がるような色合いを含んでいて、
思わず微笑んでしまった私に、忍人さんは怪訝そうな目線をむける。

「なんだ」
「いいえ、じゃあ、お願いしちゃおうかな」

普段とは違う雰囲気をみせる見慣れた広場で、
忍人さんと二人きり。

胸を締め付ける緊張感は、楽しさを含んでどこか柔軟。

「どこに行くんだ?」
「うーん、考えて無かったな、どうしよう」
「・・・君は」

呆れた顔で、少し先を歩いていた忍人さんが振り返って、
立ち止まる。

「だから、散歩してただけだって、言ったじゃないですか」

俯いて、そう言って、ちらりと忍人さんの様子を見る。
ため息をついた忍人さんは、変わらず呆れ顔。

だったらもう部屋に戻れと言われてしまうだろうか。
とりあえず、行き先を即効で決めて告げればよかった。
そうすれば少なくとも、その場所までは一緒に居られたのに。

「少し、歩くか」

意外な言葉に顔を上げる。私の驚いた様子が気になったのか、
再び忍人さんが怪訝な顔をする。

「はい! 歩きます!」

取り消されてしまうまえに、慌ててした返事が、
自分でも驚くくらい大きくてきまずくなった。

私の大声にぎょっとした後、忍人さんの頬が、柔らかく緩む。
すぐに再び前を向かれて、その顔は私の視界から消えてしまった。

ゆっくり歩き出した忍人さんの背中を追いながら、
その真っ直ぐな後姿を見つめた。しっかりとした取り。
お酒を飲んでいるようにはみえない、しゃんとした印象だけど。

「忍人さんって・・」

酔うとよく笑ってくれますね。いいかけて、慌てて口を噤んだ。
こんなことを言っては、きっとまた嫌そうな顔をされる。

言葉の続きを促すように、振り返った忍人さんに、私は曖昧に笑う。

「な、なんでもないです」
「何だ、何かを言いかけただろう」
「いえ、間違えたの」
「君らしくないな。言いかけた事を中断するなど」

忍人さんの言葉の中に、彼から見た私の姿が垣間見えて、
ちょっぴりどきりとした。

「私らしくないですか?」
「ああ。思った事は、過ぎる程全て口にするだろう」
「・・・ほかには?」

問いかけの意味が解らなかったのだろう、にわかに首をかしげられる。

「忍人さんの、私らしいって、ほかに何がありますか?」

忍人さんが、黙る。二人の間に漂う沈黙。

「色々と、配慮が足らない」
「・・すみません」

早速出たダメだしに、私はうつむく。

「緊張感も足らない」
「足らないものだらけですね」

連続した欠点に、私は恨めしげに忍人さんを見た。
ふと、また、ちょっと頬の赤い忍人さんが緩く笑う。

「呆れるくらいに前向きだ」
「それ、良いところですか?」
「さあな」

腕を組んで少し意地悪く笑った顔を、探るように私は伺った。

「・・何気なく言った君の言葉に、はっとさせられる事がある」

静かに響いた声に、動きをとめて、私は、首をかしげた。

「そ、そうなんですか?」
「危なっかしいくらいに、人に優しすぎる」

やけに優しくみえる、忍人さんの視線をうけながら、身の置き場に困って、
つい、その顔から目をそらした。

「素直すぎて、こちらの調子が狂う」
「あ、あの、忍人さん、もう、いいです」

頬が熱くなるのが解った。

なんだか、ひどく恥かしくて、うつむいたまんまそう告げると、
忍人さんの声が、止んだ。

「君が幸せそうに笑うと、こちらまで・・」

あまりに暖かい声色に顔を上げた。
目が合うと、我に返ったように、忍人さんが、驚いたような様子をみせて、
再び黙り込んだ。


「千尋」
「は、はい」

忍人さんが、額を押さえるように、髪をくしゃりとかきあげて、
にわかに困った顔をした。

「すまないがやはり、少し酔っているようだ」
「そうみたいですね」
「おかしな事を口走ったか」
「そう、かもしれないけど、でも」

俯いた忍人さんの前髪が揺れて、その、いつもより緩い目を隠した。

「嬉しかったです」

忍人さんをとりまく空気が、いつもよりも柔らかいから。
私の心まで、柔らかくふわふわした気分になる。
笑ってただ、思ったまんま、そう告げた。


「本当に、君は・・・」

言葉が途切れて、忍人さんの目が、不意にきりりと、ひきしまった。


「もう、気が済んだか」
「え!?」
「そろそろ帰った方がいいだろう」

突然、つめたくしぼんだような空気の変化に、
私は驚いたまま、何も言えずに忍人さんを見つめた。

私の返事を待たぬまま、視線を避けるように方向転換をして、前を歩き出した彼に、
慌てて駆け寄った。


「お、忍人さん、どうかしたんですか」
「どうか、とは?」
「だって・・」

意地悪にも思えるほど淡々とした忍人さんの声色に、
なんだか不服な思いがしたものの、言う言葉は見つからない。
役にたたない唇を、噛み締めて、黙って前の背中を追いかけた。

扉の前に来て、振り返った忍人さんから、
唇を結んだままうつむいて目をそらす、せめてもの意思表示。

「ありがとうございました」

何か言いたそうな雰囲気を感じた気がするけれど、
構わずに、義務的に言った自分の声はなんだか堅い。

「気を悪くしたか?」

小さくて弱い、その忍人さんの声は、ひどく優しい。

顔を上げた先に、今しがたの声の空気にとてもよく似た雰囲気の、
忍人さんの、困ったような表情。

振り切るようにそんな彼の横をすりぬけて、忍人さんが開けた扉の中に、
一足先に入った。

「ずるいです、そんな事言って」
「ずるい?」
「先にいきなり気を悪くしたのは、忍人さんじゃないですか」

ずるい。つい、謝ってしまいそうになる。
怒った気持ちを緩めるのが悔しい気がして、私は、
忍人さんをじっとにらんだものの、多分、迫力はない。

「そんな風に見えたか」
「み、見えました、違うんですか?」

すこし赤らんだ頬のまま、忍人さんの顔に、初めて見るような真剣さがうかんだ。

「違う」

そう言い終わらないういちに、忍人さんの手が私の耳の辺りに当たった。
漂った温もり、瞼に髪の感触、額に感じた熱が、忍人さんの唇なのだと、
彼の顔が離れた後に気がついた。

気づけば、自分の爪が掌にくいこむくらいに、手を握り締めて、
わたしの体は固まっていた。

黙ったまま見つめた忍人さんの顔は、ちょうど、背に光をうけていて
ちっともどんな顔をしているか解らない。

「…はやく行ってくれ」
「な、なんで」
「これ以上君と、一緒に居たら」

また、揺らぎそうな忍人さんの言葉が途切れたけれど、なんとなく、
続く言葉の意味は解った気がして、顔が燃えるように熱い。

「君が行かないなら、俺が行く」


言って、私から背をむける直前に見えた忍人さんの横顔が、
赤かったのは、お酒のせいなのかもしれないけれど。


いつも余念無く、私を部屋の前まで見届ける優秀な護衛は、
中途半端な場所で私を放り出して、再び広場に向かった。

それは、多分、お酒だけのせいじゃない。


扉を閉めて、自室に向かう私は、誰かに会ってしまった時の言い訳を考えた。

お酒のせいだ、と、この赤いであろう顔を誤魔化せば、
しかられてしまうだろうか。


拍手のお礼にしようしたものの、長くなりすぎてやめました。
忍人が絡むと話が進みません。
 
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