手と手 2008.0826



押し寄せる悲鳴の渦も、砂煙と熱気で曇った空気も、
はっきりと感じ取れる筈なのに、どこかぼんやりとしか、
頭に入ってこない。 ただ、鮮明なのは、

血の匂いと、振り下ろす腕を包む感触。

『やめろ』

うるさく響く声、どこかで聞いたような気がする、
その音は、水の中で聞くように遠くでゆらめく。

『やめろ』

不鮮明な感覚など、どうだって良かった、
適度に弾力を残しながら潰れていく塊と生臭さは、
ひどく心地良いけれど、恍惚とする間もなく、
それを欲する思いはどんどん膨れ上がる。

なのにその声だけがやけに頭にまとわり付いて、気を散らす。


『やめてくれ、私は』

私、は。


突如、人々の悲鳴が生々しく耳を突いた。


私はこんな事は、したくはない。やめろ。

あぁ、そうだ、それはついさっきまで自分が。
必死に叫んでいた事だった。

目の前で、人々がひきつったように動く人間を踏みつけて、
這って散りじりに逃げていく。どんどん開けてゆく視界に広がる、
何ともいえない暗さを持った色の渦。残骸の山。

人気が遠のいた淀んだ空間で動きを止めて、じっと立ち尽くした。

今だ、誰か居ないのか、私を殺せ。


私を、跡形も無く消してくれ。




言葉にならない自分の小さな悲鳴に驚いて、
訳がわからないまま、私は反射的に半身を起こしていた。

見慣れた自分の部屋。穏やかな日の光。

胸を打つ音がドンドンと激しい。見た自分の両手は、
すこし震えていることをのぞけば、普段と何も変わらない。

「夢・・?」

ほんとうに、そうか?

呟いた自分の声は、生まれた時から、
共にしてきた馴染んだ音。無意識に触れて確認していた、
胸上の鎖は別段おかしな所はなく、ひんやりと冷たい。

額に手をやると、冷や汗でじっとりと濡れていた。
不快さに眉をひそめる。

人が近付く気配がして、ぎくりとする。

ひょっこりと扉のすきまから顔を出したのは、
今の気分には似つかわしくない、明るい気を纏った人。

「起きてたんですか?」

神子の姿に、一瞬どうして彼女がここに居るのか、理解が遅れた。

「あ、ああ」

心臓の音につられるように、喉がひきこみそうになった。
上手く整わない呼吸を、なんとか抑えて、それだけ、返事をする。

「どうかしました?」
「なんでもない」

不安そうに首をかしげながら、こちらに歩み寄る神子から、
なんとなく目を逸らし、神子の気を逸らすように言葉を続けた。

「神子が訪ねてくれているというのに、居眠りをするなど、失礼な事をした」

「いいえ」と、笑いの含んだ、穏やかな返事をしながら、
神子がとなりに座りこむ。

目を向けられないまま、神子の視線を持て余して黙り込んだ。

「敦盛さん、嫌な夢でも見たんですか?」

中々静まらない心臓に、冷たい感触が加わる。

「いや、何故そんな事を・・」
「だって、汗、びっしょりですよ」

神子が手をこっちに伸ばした。 ふわり、と、
こめかみに柔らかい気配がかかる。

「触るな!」

私に触れた彼女の暖かさに、強く危機感を感じて、
反射的にその手を振り払って身を引いた。

不安げだった神子の表情に、驚きが浮かぶ。
大きく見開かれた目は、とても弱くて、

後悔と罪悪感で胸が痛くてとっさに言葉が出なかった。
彼女に伸ばしそうになった自らの手を、宙で止めて、
握り締めて膝に置いた。

「神子、すまない」
顔を見るのも忍びなく思えて、神子の首元を見つめる。

どうしたら。
どうすることが、神子の為になるのか、大切にできるのか、
考えるほど答えは闇へと逃げていくようだった。

神子が、再び、そっと手を伸ばす。

その動きの先を予測して、反射的に引こうとした手を、
神子は引っ張るように両手で握りとった。

神子の手の、柔らかくて暖かい感触が心地良くて、
種類の違う胸の鼓動が、体を包む。
それに反比例するように、どこかでひどく居心地が悪い。

「・・神子、あの」

強い否定の態度は、さっきの悲しそうに驚いた神子の顔が浮かんで、
できそうになかった。 

「嫌ですか?」

そう問うて、真っ直ぐに神子がこちらを見る。

「そんな、そんな事はない。 ただ・・」

ぎゅっと更に手を握られて、神子が目を細めて、綺麗に笑った。
気持ちが騒いで思わず言葉を止める。

「よかった」

短い言葉を紡いだその声は、澄み渡って美しい。

胸を責めるように叩いていた嫌な音は、何時の間にか、
穏やかに締め付けるような鼓動にとって変わっていた。
目線を神子の顔から手先に変えたら、
神子の手の中で、自分の手の震えは何時の間にか止まっていた。

穏やかな空気を吸い込んで、少し笑う。

そろりと、私は神子の手から、自分の手を抜き取った。
握る主を失って不安げに動いた自分より一回り小さい手を、

そっと、恐る恐る両手で包み込んだら、
暖かさは、さっきよりも強く私の手に伝わる。

正しい事が何なのか、相変わらず見当が付かないけれど、
一度拒んだこの手を握り締めたいと思った。
ただ、大切に。

少し驚いた顔をした神子に、気恥ずかしさを感じながらも、微笑む。


「・・これからは、いっぱい敦盛さんに触っていいですか?」

私よりもひとまわり明るく笑顔を見せて、突然、神子が言った言葉に、
思わず、私は目をまるくした。

「さ、触ったところで、あなたの為になるような事はなにも」
「あ! 触るっていうか! 例えば、えっと、手を繋いだり・・」

慌てて言い直す神子の顔が、少し赤い。

「くっついたり・・そういう事」

いいにくそうに、しだいに小さくなって、中途半端な所で終わった言葉。
俯いて、照れたように、すこし笑う神子の姿は、
つい、目が離せなくなるほど、愛らしかった。

この手を取る事は、間違いではないと、そんな風に思うのは、
ただの都合の良い考えだろうか。

先刻の眠りのさなかの感覚を思い出すと、
手の中に、この柔らかい手を収めている事が恐ろしくなる。

「敦盛さん?」

けれど。

不安げな神子の目を、まっすぐ見つめたら、
私の思いを探そうとするように、まっすぐな視線が返る。

言葉を返す代わりに、小さくうなずいたら、
神子から、穏やかな、はにかむような笑顔が帰ってきた。

「神子、私もあなたに」

その様子はあまりに暖かくて、とても、大切で。
片手を神子の手から離して、そっと、

「触ってもいいだろうか」

目をおおきくした神子の頬に触れる。さらりとして暖かい。
彼女が頷いたのを見届け、頬にあてた指を、撫ぜるように滑らせる。
再び赤らいだ神子に、顔を寄せて、

何かを誓うような思いで、ゆっくり、唇を重ねた。


何があろうとも、たとえ、この身を自ら八つ裂きにしようとも、
貴方だけは、傷つけたりはしない。

唇にほのかな余韻を残したまま抱きしめたら、
背に回された神子の腕の強さが心地よかった。

守ってみせる、だから、こうする事が貴方の幸せだ、と、

どうか、思わせてほしい。




初めて敦望を書こうとした時に浮かんだ話。
暗いからやめた覚えがありますが、初アップの「ずっと」の方が、
よっぽど暗い気がするんだけど。訳解らない。




 
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