月明かり(前半)  2008.0702




柔らかい光が、障子から透けて差し込んで、灯をつけずとも部屋が薄明るい。
きっと今夜は月が満ちているのだろう。どこか安心感があった。


幼い頃。もう、とても遠く思える昔、夜の暗闇が不意に恐ろしくなる事があった。
見えない闇の中に気配を感じる気がして。
だから、こんな風に、優しい薄光かりに満ちる満月の夜は、
安心して眠れたものだった。懐かしい。

今となっては、見えない闇の中に溶け込んでしまいそうな自分。

月明かりは、そんな自分を浮かび上がらせるように優しい。
何一つ、事実は変わらないけれど。そうまるで、

あの人のようだ。月明かりをそんな風に思ったのは、初めてではなかった。

思いを告げてしまった事が、共に暮らす事が、一緒に居る事が、
正しかったのかどうかわからないまま、ただ私は、
その心地の良い光を振り切る事など、できる筈が無かった。

障子を少し開けると、歪みなくうつくしい円を描いた月。
どこまでも強く綺麗で、優しい。

「敦盛さん、起きてますか?」

驚きで一瞬返事が遅れる。
引き戸の向こうから、呼びかける神子の声。

「ああ、どうかしたのか?」

返事はなかった。代わりに静かに引き戸が開く。
障子を閉めて振り向いて、戸の向こうに居る神子に目をやった。
長い髪が、月の薄明かりを受けてにわかに光る。
表情は暗くて解らないけれど、姿勢良く座った影が、
凛とした面持ちを想像させた。

返事は、相変わらず無かった。しばらくの静寂。

砂煙のように、心の端からじわじわと立ち込める感情。
その衝動に比例して、強くなる自分への警告。

「用が無いのなら、私は休ませてもらう」

気持ちを押さえ込むように、返事を待たずに布団の中に逃げ込むと、
頭まですっぽり中に入り込む。

「今夜は、敦盛さんと一緒に居てもいいですか?」

布団越しにそう聞こえた声は、はっきりとしていた。

とても、神子らしかった。前向きで強くて、優しくて綺麗で、
綺麗すぎて、何故だか脆くさえ思える、この人らしい。

泣きたいような気持ちになるくらいに、暖かくて悲しい。

「駄目だ」

自分の声が布団の中でこだまして鈍く響く。返事はない。かわりに、
畳を膝で擦る音と、近付く気配。

「神子・・!」

勢いよく布団を跳ねのけ身を起こす、とがめるように呼びかけたら、
すぐ傍まで寄った神子が、唇をかみしめて私を見つめていた。

「自分の部屋に帰ってくれ」
「いやです」

神子の声は、少しだけ震えていた。

私の服の裾を握り締める神子の手を、振り払う事が出来なかった。
ぴくりとも動けずに、ただ、その指先を見つめる。

「神子・・頼む」

俯いて首を横に振った神子の髪が腕にさらさら当たった。
たちこめた香りに、何もかも忘れてしまいたくなる。
過去の事も先の事も、自分の立場も、全部捨てさって、今、

こんなにも愛おしい貴方を、抱きしめる事が出来たら。

「私は怨霊だ」

自分が紡いだその言葉は、崩れ去りそうになった私の心に痛く突き刺さる、
熱が上る一方だった心が体が、凍ったようにその上昇を止めた。

「・・怨霊なのだ」
自分の許されない欲望に、止めをさすように繰り返した。
驚くくらいに、出た声はかすれていた。

少し眉を寄せて、神子が顔をあげる、でも弱々しさは無かった。
「わかってます」

神子の手がそっと伸びる、月のあかりにぼんやり照らされて、
白く浮かんだ腕が美しかった。私の頬に触れた神子の指が、少し冷たい。

「わかってますから、辛そうな顔しないで」
「わかっていない、あなたは自分が・・」

この人は解っていない、自分がどれだけ清らかで、美しい気を持っているか。
自分の、自然の理から完全に離脱したこんな魂さえも、
美しく洗ってしまうような、そんな錯覚さえおぼえる程に。

とても尊いと思った。守りたかった。
私が込み入り過ぎればきっと汚してしまう。
なのにどうして私は。大切だと思えば思うほど・・

「怨霊だから、間違ってるんですか?」
逸らした目線をおいかけるように、神子が私の顔を覗きこむ。

「好きな人にもっと触りたいと思う事は、そんなにいけない事なの?」

怒っているようにも泣いているようにも取れる、少し震えた声。
眩暈がしそうなくらいに、ただその声が、言葉が、

この人が愛おしかった。

「敦盛さん・・今夜は、一緒に・・」

神子の唇が、躊躇いがちに動くのに少し見とれて・・・

言葉が終わらないうちに、そっと自分の唇を重ねる、
頭はうまく回らない、なのに、体は勝手に、あまりに自然に動いた。
掴んだ神子の腕が、唇が、驚いたように震えた。

ほんの少し顔を離したら、すぐそこにある神子の目は、
緩んだように頼りなげで、泣きそうにも見えたけれど、
さっきまでの瞳よりもずっと安堵しているようにみえる。

「二度も、貴方に言わせる訳には・・」

抱きしめた神子の体は柔らかかった。髪に顔を埋めたら、さらりとした感触と、
胸をつくような芳醇な香り。
ひどく心地が良い、怖いくらいだった。背後に潜む恐ろしい予感に、
気がつかないふりをしている自分に、心の隅で気付いていた。

はぐれまいとするように、神子の腕が私の背中に回される、
さらに柔らかさが際立って、何もかもを消し去るように、私は目を瞑る。


もう、心と体の熱は、何をもってしても、下げられる気がしなかった。

 
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